パパ達の「ライフシフト」インタビュー

香川へのUターンは、家族の幸せを考え、選択した結果 徳倉康之さん

 

徳倉康之さん

 

株式会社ファミーリエ代表取締役

香川大学大学院地域マネジメント研究科特命准教授

 

ライフアントレプレナー

 

プロフィール

1979年生まれ、法政大学法学部卒業後約10年間大手日用雑貨メーカーで法人営業を担当。09年に長男誕生後、勤務医として働く妻と互いにキャリアや働き方を相談し自身が8ヶ月の育児休業を取得し働き方・意識の大きな変化が生まれ家庭を重視し、効率的な働き方をする事で業績にも連動する事を経験。

後に次男・長女と生まれそれぞれに3ヵ月の育児休業を取得。2011年にNPO法人ファザーリング・ジャパン会員、後に転職し同法人事務局長に就任しソーシャルセクターで講演活動の他、営業・広報・組織運営・行政協働案件・企業協働案件に携わる。2013年に同法人理事に就任と同時に独立、故郷香川にて起業後「働き方・生き方」に関わる様々な活動を行っている。

企業・自治体・大学・高校・医療機関等での講演、セミナーに加え自治体委託事業、個別企業にタ対する働き方関連コンサルティング、また高松市内にテレワーク・コワーキング施設「高松市プラットフォーム・ラボ」を開設運営中。現在は香川大学大学院地域マネジメント研究科特命准教授、内閣府子ども子育て会議委員、内閣府男女共同参画連携推進会議有識者議員ほかを務める。

 


香川にUターンして4年。移住のカギは、家族の一番の幸せ

 

今までのストーリーを教えてください。

徳倉 大手日用品メーカーに勤めていましたが、退職してFJの事務局長になり3年勤めました。その後Uターンして香川の高松で暮らしています。

 

FJで事務局長の仕事をして得たことは?

徳倉 FJの事務局長として、社会を変える仕事に携われたかなと思っています。自治体や国に働きかけたりということもそうですし、マネタイズもなんとなくつかみました。

 

高松へのUターンは、計画していたことですか?

徳倉 埼玉で暮らしていましたが、夫婦ともに香川が出身ですし、いつかは帰りたいと思っていました。タイミングとしては以下の3つ。

「1」長男が小1に上がるとき

「2」子ども達が大学進学して成人するとき

「3」両親の誰かが介護の必要な状態になったとき

どう過ごすか、どう生きるかということについては、夫婦でたくさん話をします。判断基準は、どれが一番家族でハッピーかどうか。

「2」の選択は幸せですが、誰かの健康が前提になります。お盆や正月しか実家に帰れない。そう考えると、祖父母が孫に会えるのは年3日程度×10年くらい?とすると、30日程度になってしまいます。

そんなことを話していて、長男が小学校に入るタイミングがいいのではという結論に達しました。子どもにとっても故郷ができますし。祖父母もまだ60代ですから、元気ですし、一緒にワイワイと楽しむことができる。今、想定できる家族の一番の幸せは、香川に帰ることでした。

さらに、独立できるタイミングでもありました。私が育休を取ったタイミングで、妻もキャリアを積み、転職しやすかった(どこでも通用するキャリアがあった)ということもあります。

 

香川に戻らない選択肢もあったんですか?

結婚後、子どもが生まれる前ですが、働きながら医療事務の資格を取得していました。香川に戻らず、妻が開業するなどあれば役に立つかなと思って。

 

人生の選択肢を考え、いつも準備と心づもりをしている

 

いろいろな選択肢の可能性を考えているんですね。

徳倉 常に選択肢は何があるか考えて、その準備はしていますね。

香川に帰ることも、選択肢のひとつにありましたから、大きな迷いはありませんでした。

 

Uターンするにあたって、収入面での心配はありませんでしたか?

徳倉 もちろん収入の不安はありました。でも地方は働き盛りの人が不足していて営業職のニーズはあると思っていましたから、何とかなるだろうと。香川に帰ると決めて約3カ月で会社を立ち上げました。

要はやるやらないかということ。私自身、準備していてもやらないことだっていろいろあります。でもいろいろな選択肢を考えて、準備と心づもりだけはいつもしています。

 

シミュレーションについて、もう少し詳しく教えてください。

徳倉 Aを選択したときに、自分の人生の選択肢がどう増えるのかということを考えます。たとえば、救急箱に胃薬と傷薬を常備しているけれど、全部使うわけではないですよね。でも準備しているから、チャンスにのることができる。言い換えればチャンスが来たのに、乗れないのは嫌なんです。

 

そのような考え方をするようになったのは、いつからですか?

徳倉 会社員の時から、会社を作るかもしれないと準備はしていました。資本金をためたり。1年くらい仕事が無くてもなんとか生活できるイメージです。でも、会社員時代に大病をしたこともあり、使っちゃいましたけどね。でも逆に大病したけど、何とかなったということです。

 

起業していかがでしたか?

徳倉 初月の売り上げは5000円でした。。。 経営者からすると初月に売り上げがある事が凄いと今では思いますが当日はこれは大変だぞと思ってました。お陰様でその後は売り上げを伸ばしていますが、延々に続く仕事はないと思っています。「これがなくなったら何が困るか?どんな選択肢があるのか?」という意識を常に持っていますね。

 

大学院に通ったり、大学で働く事になることも、選択肢にあったのでしょうか?

徳倉 会社作って1年目である程度の売り上げは立ちましたが、これだってずっと続くかわかりませんから。人前で話すことが増えたので、自分の領域を使って、きちっと話したいと思い、そのために大学院で学び・研究をしました。家からも近く、費用も私立よりはお金がかからない国立大だったので。

大学院では、ある職種の就労継続に関わる論文を書き、その領域でしっかり話せるようになり、視野も広がりました。すると、卒後したら、大学院で働いてほしいという話がありました。企業と行政と大学をつなぐ産学官連携プロジェクトと地域の起業家にフォーカスした「ライフアントレプレナー」という領域を大学院の授業で担当する事になりました。

大学や大学院で教えることは人生の選択肢にありましたが、遠い将来のイメージ。こんなに手前で来るとは思いませんでした。

 

「人生を客観的に見ろ」という父の教え

 

今までで一番大きなライフシフトは、どのタイミングでしたか?

徳倉 一番は会社員時代に働きすぎで倒れた経験ですね。そのあとは、どうやって家族と過ごすかということしか考えていないような気がします。既に高学年に入った小学生の長男とがっぷり過ごせるのだって、あと2年くらいだと思いますし。家族の時間を確保して、ほかの時間や日程に仕事を入れている感じです。子どもの長期休みには、同様の理由で仕事を極端に入れないようにしています。

 

常に選択肢を考えて準備するというのは、なぜそのような思考を持つようになったのでしょう?

徳倉 小学生くらいの時だったか父に言われたことがあります。「自分の人生が映画に撮られていると思って、客観的に見ろ」と。それから、自分がやっていることや今を、ちょっと上から俯瞰してみるようになりましたね。そうすると、ちょっとゲームみたいに、選択肢が見えてくるんです。父は「イメージすることが大事」とも言っていました。こうなったら、こうなるだろうとかね。だから人を観察するのも好きですね。うまくいっている人や、物事は、基本的に繰り返しのような気がします。

 

決断するのは大変じゃないですか?

徳倉 物事を決めるときには、実は淡々としています。準備して、いつでも決められるようにしているからだと思います。

 

 

 

 

取材・文:高祖常子(FJ理事、育児情報誌ninaruエグゼクティブアドバイザー)