パパたちのライフシフトインタビュー

「振り返れば10年ごとにライフシフト。地元が一番楽しい!」

八坂貴宏さん

 

八坂貴宏さん

 

一般社団法人スマイル・メンター・ジャパン代表理事

人財育成コンサルタント

プロフィール

1969年大阪府生まれ、東京都荒川区在住。2児(高3・中2)のパパ。関西大学卒業後、1993年に生命保険会社に新卒入社。15年間勤務したのち、2008年に人財育成コンサルタント業として独立・起業。年間150日登壇、通算150社・3万5千人を対象に研修を実施。ソーシャル活動では、ファザーリング・ジャパンの「コヂカラ・プロジェクト」リーダーを務める他、NPO法人しあわせなみだ(2047年までに性暴力をゼロにする)にも参画。PTA会長や父親の会、町会青年部等地域活動も同時に楽しんでいる。共通するミッションは「ともに認め合い笑顔で応援しあえる社会を創る」。


15年間の企業勤めを経て、うつに

 

最初は企業勤めだったんですか?

15年間、企業に勤めていました。生保関係の会社です。その間に結婚して、長男は2002年、次男は2006年に生まれました。

 

卒業後についた会社のお仕事は、やりたかったことですか?

大学を卒業して、生活のためというか、みんな就活していましたから、そういうもんだろうっていう感じでしたね。バブルがはじけた頃だったんですよ。就職氷河期元年と言われた時代。2浪していましたし、エントリーはハガキ制度。ハガキを書いても書いても反応なかったですね。やりたい仕事とかはなくて、文系なので営業かなとは思っていました。

 

それで、就職した会社からアプローチがあった?

いい会社に入れたと思いました。「これをやりたい」という意思がなかったから、いろいろな経験をさせてもらいました。

 

15年間働いた会社を辞めたのはなぜですか?

大きなきっかけとなったのは、うつ状態になってしまったことです。

 

上司が威圧的だったりしたのですか?

上司からのプレッシャーもありましたが、ちょうど会社に居続けるという選択肢が、自分の中で薄まっていると感じた時期でした。

 

それはなぜですか?

営業や事務等いろんな仕事を経験する中で、社内研修講師をやっていた時が一番楽しかったんです。その後、労働組合の書記長を2年間務めました。書記長の仕事を通して、仕事を自分で回す楽しさを感じた時期でもありました。組合員からはうつなどのメンタル不調の相談が多かったんですよ。それもあって、在職中にキャリアカウンセラーの資格を取得しました。その研修受講者の中に、研修会社の社長がいたんです。一緒にやらないかと言われたのが、独立のきっかけです。

 

会社に残って、やりたい仕事をする言う選択肢はなかったのですか?

組合から現場復帰し、企画部門のコンプライアンス担当になりました。専門的知識が不足していたこともありますが、どうしても意欲が高まらない。そんな中、出した書類などすべて否定されたりと。精神的に参りました。今までなら「わかりました」と会社や上司に合わせていたと思います。でも、もうできなかった。

 

 

独立まもない頃
独立まもない頃

地域でつながることで、東京を地元に!

 

会社勤めの15年間は、同じ場所でのお仕事だったんですか?

8カ所異動しました。地元大阪での勤務から始まり、岐阜・名古屋と転勤した後、東京に来て結婚、子育てということになりました。どこかで大阪にも戻りたいという気持ちはずっと持っていましたが、今は東京が地元になりました(笑)。

 

東京が地元なんですね!

結婚・子育てが大きかったですね。幼稚園の送り迎えをし、小学校では父親の会に参加しました。長男が年中の時に、小学校には父親の会があるって聞いたんです。子どもが小学生になる前から、おやじ会に入る気、満々でした(笑)。

 

会社を辞めたのは、どのタイミングだったんですか?

東京の今の場所にマンションを購入して1年後に辞めました。辞めることが正解かどうかわからなかったけれど、妻は「辞めてもいいよ」と了解してくれたことも大きかったです。

 

決断には地元という意識も大きかった?

会社でのステップアップのイメージを持てなかった。そして、地元を作りたいという気持ちが強かったですね。転勤もなくなりますしね。本当は将来的に大阪に帰るつもりでしたが、妻は東京育ち、子どもが生まれて、地域を変えてしまうのはかわいそうかなとも思いました。それで東京を地元にしようと思いました。

 

大阪にもつながりがあるけれど?

大阪には友だちがいますが、仕事の関係などとはまた別。転勤族でしたから、各地に行けるし、全国に知り合いもいます。でも、友だち感覚とは違うんですよね。会社の人脈って、会社を辞めると一部の仲の良い人たち以外とはあまり話ししなくなってしまいますから。

母親が大阪にいることが何よりも気がかりですが。

 

父親の会に入ってどうでしたか?

父親の会に入ったことで、いろいろなつながりが一気に増えました。利害関係がないので気楽ですね。入るときには、ほんの少しだけ緊張感?もありましたけど、入ると面倒見てくれるというか気にかけてくれたり。小学校の父親の会なので、学校の行事や先生とも関われたり、子どもの友だちもわかります。学校の話をパパ同士でしたり、学校行事の手伝いをしたり。地域のお祭りには、父親の会で毎年焼きそば屋さんを出店してます。めっちゃ楽しいですよ。一緒に活動することで達成感も味わえますし、一気に仲良くなりますね。

 

父親の会は、PTAとも連携しているのですか?

父親の会は18年前くらいに小学校で立ち上がったようで、PTAと両輪になっています。自分もそのつながりで小学校のPTA会長になりましたが、父親の会でPTA役員をしている人もいますし、運動会なども、「PTAはここをするから、父親の会はこれを」など、対話しながら協力体制で行っています。

 

 

父親の会 今はOBとして活動中
父親の会 今はOBとして活動中

転機はうつになったこと。やりたいことと現実とのギャップが明確に

 

八坂さんにとっての一番の転機は、いつですか?

うつになったことがポイントですね。自分がやりたいこととのギャップが明確になりました。2018年の年末に脳梗塞になったんですが、独立して10年でした。2018年に社団法人の形にして自分一人ではビジネスモデルを回すのはしんどいと思っていた時期でした。仲間の講師とつながって、広げていくことを考えていたところでした。

 

脳梗塞になって、考え方とか後ろ向きにならなかったんでしょうか?

一時期、しゃべれない、手も動かない病状でした。でも自分では「きたな」という感じ。割り切って、自分がすべてやるのではなく、仲間にやってもらおうと思いました。思えば10年ごとにライフシフトしているんですよ。

20歳浪人、30歳結婚、40歳独立、50歳脳梗塞…

もちろん今、元気に働いていますが、自分が四六時中、現場に走らなくても済むような研修プログラム開発をしようと思っていたところだったので。フリーになって10年間の実績が自信になりました。

 

プラスの方向に考えられるのは、素晴らしいですね。

ソーシャルの力も改めて実感しました。フェイスブックに病状をカミングアウトすると、たくさんの友人から励ましのメッセージが届きました。地域の友だちも応援してくれたので、「何とかやっていける」と思いました。

 

 

脳梗塞全快祝い
脳梗塞全快祝い

この先のプランなどありますか?

次のライフシフトは60歳。次男が大学を卒業する頃でしょう。あと8年間頑張らないといけないと思っています。現在の仕事はなるべくパートナー講師に振って、個人向けの講座を作りたいと思っています。パーソナルビジネススキルトレーニング講座を作っているんです。2020年秋から、スタートしたいと思っています。

 

今、充実してますか?

今が一番楽しいですね。今までさんざん、転勤や出張をしてきて、いろいろな場所で人とつながることができたけれど、地元ができた。今は、町会事務所内のスペースで週に2日シェアオフィスにして、地元の友だちとシェアして利用してます。仕事終わりに、地元の友だちが経営する居酒屋で仲間と一杯だけ乾杯。そして、家に帰って、パートナーや子どもたちと夕食をともにしながら過ごす。そんな毎日が、とても楽しいです。

 

「人生100年時代のセルフマネジメント力」  一般社団法人スマイル・メンター・ジャパン 八坂貴宏 (著)

 

 

年末恒例の家族で沖縄旅行
年末恒例の家族で沖縄旅行

 

 取材・文:高祖常子(FJ理事、子育てアドバイザー&キャリアコンサルタント)